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勉強はほどほどでいいと思う

思うこと

今の時代、早期教育や小学校受験、中学受験だとその流れをあおるような風潮が強いですが、

本当に安易にその風潮に流されてしまっていいのかな・・・と最近つくづく感じます。

もちろん勉強は、得意ならとことんしたらいいと思います。

でも、そこまで得意でないなら、勉強はほどほどでいいんじゃないかなと思います。

ただし中学校までは義務教育なので、勉強の基礎内容は理解しておくことは大前提です。

ほったらかしはいけません。

ほったらかしておいて、勉強についていけなくなると、学校が楽しくなくなり、行きたくなくなってしましますので・・・、何事もバランスが大切です。

わたしはテスト前などは「勉強しなさい」と言ってます💦 それに関する記事はこちら▼)

子どもが小さいころから親があまり目をギラギラさせないことです。

子どもが小さいうちは、小さいだけでかわいいんです。

わたしは子どもが3人いてるので、3人分の小さい頃のかわいさを順番に見せてもらえて、そのかわいさを見られるという幸せがず~っと続いているような感覚です。

だから、あまり小さいころから無理しない方がいいな~と思います。

ゆっくりでいいです。

小学校時代も、親が目の色を変えるほど、無理に勉強させる必要はないと思います。

小学校時代は基本内容を理解していたらそれで十分です。

ただし、宿題だけで基本内容を理解できていない場合は、家庭学習が必要です。

それについてはまた別記事で書きます。)

そして、中学校、高校になると、子どもが自分で、多かれ少なかれ目の色を変えて勉強しだすときがくると思います。

そのときは応援しましょう。

そういう親の姿勢が、子どもの自主性を育てることになると思います。

何より、小学校時代にしかできない、友人関係や習い事の時間、自由な時間って、後で取り返すことができない貴重なものだと思います。

「人間の評価の一元化を排す」という内容で、

イエローハットの創業者の鍵山秀三郎氏がこんなことをおっしゃっています。

「人間の評価の一元化を排す」

例えば学校の成績。英語と数学、国語ができる人は優秀。できない人は駄目。

人からの評価だけならまだしも、自分で自分を駄目だと決めつけてしまう評価の一元化は大きな問題です。

当然のことながら、人間の能力はひとつのことだけで決められるほど単純なものではありません。

人それぞれ、実にさまざまな能力があり多元化しています。

私自身、自慢ではありませんが、学校の成績はさんざんでした。

英語が話せるわけではありません。数学が特別できるわけではありません。

また、難しい本が読めるわけでもありません。

その代わり、私には私にしかない能力があることを知っていました。

誰にも負けない不屈の忍耐心。

たとえ努力の結果、得るものが少なくても、あるいは得るものがなくてもあきらめない。

決して投げ出すことなく次に向かって取り組んでいくという才能です。

「ひとつ拾えば、ひとつだけきれいになる」鍵山秀三郎著より引用

特に、「人からの評価だけならまだしも、自分で自分を駄目だと決めつけてしまう評価の一元化は問題」という言葉は深いなと思います。

鍵山さんほどの才能がある人の方が少ないとは思いますが、人から成績で評価されることは仕方ないにしても、だからといってそれがすべてでないという気概を自分で持つことだと思います。

そのためには、勉強勉強と追い込むのではなく、自分の子どもにどんな才能があり、どういう方向にのばしてやればいいのかを、親として考えていくほうがその子どもの為、ひいては世の中の為なのかな・・・と感じる今日この頃です。

偏差値至上主義の風潮にあおられないよう、地に足をつけて子育てをしていきたいと思います。

子どもの勉強方法については こちらの記事もご参考ください▼

かしこ